神がいてもいなくても笑顔でしょ



先日、数人の友人と千葉に行きました。

近県である千葉にはもちろん何度も遊びに行ったことはあるのですが初めて行く海岸でした。まだまだ知れない場所もあるのですね。

「知ってる全てはまだ途中」なのをちょっとした小旅行でも思ったりします。

さて、今回皆で行った特別な理由はないのですが、そこで有名スポット「白い鳥居」をくぐりました。

女子会っぽくて楽しかったね。ま、男ですけど。

そこで「鳥居」ってなんだ?と思う方のために書いてみます。
自分は神を信じていないので、その理由もついでに書いてみようと思います。

いつも通りカジュアルな気持ちでお願いします。神の存在に熱くなる方はお断りしますね。

鵜原海岸 白い鳥居

今回行った先の通称「白い鳥居」は、八坂神社の鳥居でした。
この八坂神社には行かなかったのですが、目の前の白い鳥居と赤い鳥居が境内入り口にもありある種の珍しい神社なのかも知れません。

浜から見たときの海に向かって門を作るなんて誰が考えてもオシャレだし謎めいてます。ノアの箱船がやってくるかも知れませんね。
そして自然を愛しているようなニュアンスを感じます。
自分への御利益よりももっと大切なものを感じることができそうです。

鳥居の意味

俗界と神の領域の境界線です。これを鳥居に限り結界と呼びます。
行政が決める家と家の境界線の神バージョンです。
もしかしたら白い鳥居は海が神の領域と言う理解にも当てはまるかも知れませんね。

鳥居の形の謎

これは未だに不明のようですので、都市伝説風に書いちゃいます。

日ユ同祖論と言うのを聞いたことがありますか?
そこから強引に結びつけましょう。

イスラエルの歴史の中にファミリーと言うか血縁と言うか部族と言うかコミニティーが12支族あったそうです。それがなんやかんやで2支族がイスラエルを統治します。残りの10支族はその土地を去ります。その10支族の行方がわからないまま今日に至ってます。その10支族をイスラエルの失われた10支族と呼んでいます。

その1支族ガド族が天皇家の成り立ちではないか?と言われているのですが、その理由は「ガド」が時代の流れで変化し「カド」になりさらに変化し「ミカド」になったのではないかと言う説があります。ガド族の家紋はテントのようなものを記した家紋です。
そしてアシェル族と言う種族の家紋はオリーブの木を模したと言われる家紋です。オリーブの木の花言葉は「平和」と「知恵」です。
もしこの2支族が日本に来ていて目印と言うかそんな感じで家紋を重んじていた可能性があったとしたら、、、、、、ここまでがまずひとつ。

そこからもうひとつが、ガド族とアシェル族が日本に来ていたと言う仮説があるなら、そこには他の海外からのカルチャーも来ていたことでしょう。残りの8支族の末裔も来ていたかも知れません。日本の鳥居に類似した形には仏教圏の世界各地域に多く残っています。横浜中華街の入り口もかなり派手ですが鳥居の形ですよね。当然、インドにも鳥居によく似た形の門があります。

家紋になぞるならアシェル族が知恵を出しガド族が暮らし仏教徒の持ち込んだ伝統と教えが合間って、
木はオリーブの木を意味し、形は仏教カルチャー、その門をくぐるとカド族の住まい、、、、、、、信じるか信じないかは貴方次第です。

鳥居の色

諸説ありますよ。当然ですよね。神へのなんたるかを平民の自分が詳しく知っているわけないでしょ。

鳥居の色は大きく分けて2つ。
白の鳥居は「神聖」を意味しているそうです。
赤(あか)は朱(あか)と言います。朱色です。朱色の朱は水銀が原料となる塗料で木材の防腐剤として使われていたそうです。その色が今はスタンダードカラーとして受け継がれているそうです。赤(朱色)は魔除けの色としてユーザーに愛されていますよね。

黒い鳥居もありますよね?
北を向いていれば北の守り神は玄武で守り色が黒らしいです。
しかし日本全国、青もピンクも色々あります。結局のところ、なんでも良いかも知れませんね。
黒の方がカッコいい!の可能性も否定できません。

鳥居(トリイ)トとなぜ呼ぶか

これも具体的に解明されていません。

ひとつの説ではヘブライ語で「門」(もん)のことを「トリイ」と発音するそうです。
これは謎が謎を呼びますね。

もう一つの説は、天岩戸(あまのいわと)に天照大神が閉じこもってしまい、天照大神をなんとか外に出そうと策を講じたのが岩の外にある木に鳥を乗せその鳴き声で天照大神を外に誘い出したと言う説です。木に乗せた(居の意味)鳥が神を呼んだとされ鳥居になった説。

この2つが有力ロマンチック説です。

神を信じない理由

神を信じない理由はいくつかあります。

まず、万能じゃない。ギリシア神話に登場する神も実に人間っぽく欠点だらけです。
天照大神さんは岩に閉じこもっちゃうくらいのメンタルの弱さがあり、鳥の鳴き声に誘われるほどのロマンチストです。神を鳥の鳴き声で誘い出しちゃおう!と考える人たちもどうかと思います。人間っぽくて、わざわざ祀りあげるほどでもなさそうに感じます。
どこかの国の神はお告げで他国への攻撃を許可してしまうほど傲慢で未来予想もできない神みたいですし、神を崇めるのは難しい相談です。

日本には神仏習合と言う考えがありました。もともと日本は神国なのですが仏を一緒に祀る思想も同居していたのです。すごくポップな考えだと思いませんか。しかし明治政府の神仏判然令の条例により神社とお寺は別物扱いすることになったのです。ここでも神や仏より政治の方が強いのです。神と仏はこの時に政治に勝つべきだったと思いますし、神仏習合のポップなカルチャーを民に残すべきだったでしょう。

何回拝めば願いは成就するのかがハッキリとしていない。御百度参りという過酷な祈願は100回と決まっていますが誰の願いも100回で必ず叶うなら誰でもやります。「神への信心が足りない」「邪念がある」「精神が穏やかではない」と言われればそうかも知れませんが、その完成形を見た人もいません。

「神様はあなたの心にいます。祈りなさい」がもっとも意味不明です。だったら神社も教会も必要ないですよね。人の心にいる神は宮司や牧師の声にしか反応しないのでしょうか。だとしたら持ち主の声や気持ちに反応しないその神は必要でしょうか。

これらの理由で神を信じていません。神が万能であれば、たった1日でも犯罪や戦争のない1日くらい作ってから神を名乗って欲しいものです。

神は信じませんが、友人知人家族で鳥居を笑顔でくぐるならいくらでもくぐりますし、いくらでも手を合わせます。神の教えや存在より周りのみんなの笑顔の方が大切ですよ。神がいなくても笑顔の友人知人家族がいる方がよっぽど身になります

神を冒涜したら罰が下る、、、、、器の小さい神だとしか思いません。

また機会があれば今度は「仏」についても書いてみたいと思います。