たまには LOVE山口県 1/3
たまには自分の田舎のことを書いてみます。
故郷と言うとなんだか昭和臭が強いし重いような気がするのです。
青森から山口まで2日あれば余裕でいける小さな島が国になったのは歴史で言えばつい最近のことです。
その前は?と言うと北海道から九州まで多くの国が存在していました。
山口県もその一つですが、
1)歴史
2)言葉
3)観光
の全3話で書いてみます。
この章は「歴史」です。
自分は下関市と山口市を故郷に持つのでその両市をメインに書くことはご理解ください。
そして山口県を語る上で萩市は必ず登場する重要な町です。
下関、山口、萩、この3市でいきたいと思います。
どこかにありそうな歴史を紐解いても仕方がないので面白い切り口で紐解きたいと思います。
それは語源。語源から山口県の歴史を紐解きます。
全国の皆さん、山口県をよろしくお願いします。
基本データ
人口約130万人。内下関市約25万人でダントツのトップ人口。次いで山口市約20万人。
面積約60万km2。内山口市が約10万km2でダントツの広さ。次いで岩国市約9万km2、下関約7万km2、萩が約7万km2の順番です。
総理大臣産出県と言われていますが、これは制度の内容も大きく関係しているので戸籍のある県はどこか?と言うことだけにフォーカスすると総理大臣産出ナンバー1は東京都です。次いで山口県がナンバー2となります。第3位は岩手県ですね。
大名。言わずと知れた毛利家が山口県を統治していました。これは後に書く由来で詳しく書きたいと思います。
山口県の山口の由来
山口県はもともと周防の国と長門の国と2つの国で成り立っていた地域のことです。
長州と言うのは山口県全域を指すのですが、長門の「長」と国を意味する「州」が合間って長州となった説が有力です。長門の国は県北側、周防の国は県南側を拠点にした国で毛利元就に代表されるように長門は県内北側の萩市山口市のある地域を拠点としていました。
周防の国と長門の国の国境は曖昧でしたが性質は少々違っていました。
周防の国は現在の防府市を中心にしていました。敢えて言うならどちらかと言うと帝からの流れでできた国が周防国です。長門国も朝廷からの成り立ちを持ちますがイメージの中では毛利家の領土とされています。毛利家の領土が長門国に対し、周防の国は藤原一族→大内家→毛利家の統治となりました。大内家は周防国の守護職として公務に代々就いていましたが毛利家(長門国)が徐々に統治していくことになります。
その大内家に由来する町が山口市大内です。相関図としては周防国が長門国に侵略された形となるのですが毛利公は実に素晴らしい卓越した統治を行ったことにより長門の国が一般的に浸透して行き実際にも長門国として山口県地域は存在していました。
毛利家が城を構えたのは萩市と山口市です。山口と言う名の由来は「山の入り口」と言う意味を持ち、どこの山か?と言えば山口市と萩市を結ぶ東鳳翩山(ひがしほうべさん)を指します。萩市に本城を持つ毛利家への入り口として東鳳翩山を由来に山の入り口を意味する山口と称されていました。
のちに山口町 (現在の山口市)に県庁を置いたことがきっかけとなり山口県となりました。
下関の名前の由来
下関は多くの市名を持つ珍しい地域かも知れません。下関、赤間関(あかまがせき)、赤馬関(あかまがせき)、馬関、といくつかの呼び名を辿っています。制定の上では下関、赤間関の2つです。
赤間関が面白い。
赤間関の「関」は海(海峡)を意味します。「あかま」とは諸説ありますが、有力なのは2 つ。
現在の赤間神宮の裏山に馬の形をした赤い岩を御神体として崇めていたことから「あかま」と称し、海に馴染み深い町だったのが合わさって赤間関(赤馬関)となった説があります。
もう一つが面白い!
現在の下関にも分かるように「関」(海)に深く関わった地域であるのは間違いないです。
海産物であるワカメを神物と考えた時代があり、漁師の間では発音を「ワ」を「ア」と発音する方言がありました。発音が「アカメ」となります。
「メ」は当時多くは「目」を意味していたそうなのですが「目」を「マ」と記す風習があったようです。古語辞典や語源広辞典にも記されているそうです。
それが重なりに重なり、神物であるワカメ→アカメ→アカマとなったそうです。
下関市南風泊(はえどまり)漁港沖合は今はワカメの養殖場であり、昔もワカメの水揚げ量がとても多い地域なのです。
嘘のような話ですが下関史述にも記載されている最も有力な説です。
赤間関から下関に変えたのは明治35年に市制が定められた時です。
上関、中関、下関がある県は山口県だけのようなのですが海を意味する関に相応した名前と市名変更の条例により言いやすい名前と地域の所在に当てはめた市名に変わりました。
個人的には赤間関市より下関市の方が良い名前だと思っています。
長門の国
長門とは関門海峡を指します。毛利家が本城を構えた場所は萩市ですが国府(政務を執る施設)を下関に置きました。下関市の北側に長門市(現在の下関市)があるのは長門国の勢力がかなり影響していたのでしょう。
「長門」の語源は「穴門」「穴戸」(あなと)です。穴門の意味は海峡です。山口県で海峡と言えば関門海峡を意味します。「あなと」が「ながと」へ変化しました。
勢から藩へ 藩から県へ
これはどこの地域でも同じですが、当時は武力制圧によって地域を決めていました。山口県は毛利家に統治されました。それを江戸時代後半で「藩」と総称していましたが、それ以前は「勢」(勢力)と表現していました。毛利勢と言った表現です。
「藩」は大名武将が統治する地域を示す言葉なので明確な国境は無かったのですが封建制度を全国の大名が強く使ったためその地域ごとに統治される文化が根付き自分の統治者を絶対的な存在として領土または気持ちの中で認めたのが「藩」です。
廃藩置県以前に山口県内(長州藩)は、長府藩、山口藩、清末藩といくつもの藩が存在しました。それらをまとめて長州藩と呼ぶのですが「藩」が付くからにはそこにはその土地の権力者がいました。もしかしたら全国的に同じ現象があったかも知れません。
藩と言う曖昧な勢力を合理的な区画で整理したのが廃藩置県です。
明治維新の後
藩から県になったのは廃藩置県(明治4年)の出来事があったからです。藩と言う合間愛な区画を地理的条件での明確な区画整理を目的に廃藩置県は行われました。明治7年に廃城令が出されると間も無く萩城(毛利城)は解体され毛利家は山口市へ住居を移すことになります。このことが山口県山口市を県庁所在地にした大きな出来事だったのでしょう。
明治維新の立役者として坂本龍馬に並ぶのが吉田松陰です。吉田松陰自体は倒幕と言うよりかは「世界への見聞」を学び広めたいと思っていたように思います。結果、それが倒幕と言う形を選んだのが松下村塾の門下生や全国の開国を選んだ武士たちだったのでしょう。
個人的には明治維新は全国の武将たちの早合点からなった出来事だと思いますが、吉田松陰先生の思っていた内容だったのかをもう一度考えるべきではないか?と門下生末裔の方々に考えていただきたいと思います。
明治維新から現代
駆け足で見てきましたが、明治から現代まででこの章は終わりたいと思います。
全国各地の市民は藩の足かせを取り全国へ飛び出します。
松下村塾の門下生で山口県を一躍有名にしたのは伊藤博文でしょう。初代総理大臣となり山口県の名を全国に広めました。伊藤博文の言った「下関のフグは上手い」の一言で河豚と言えば下関!となった逸話があります。故郷のために言ったかどうかは分かりませんが、結果故郷のためになりました。
そして現代。総理大臣安倍晋三も山口県出身と言われます。
江戸時代明治時代においては情報のインフラが整備されていなかったこともあります。現代において江戸時代明治時代の思考を持ってすれば安倍晋三は「山口県の人」となるでしょう。
安倍家当主安倍慎太郎は大庄屋(だいしょうや)を勤めます。大庄は酒や醤油などの外食産業の一つです。その仕事で財をなした慎太郎の孫が晋太郎、その息子が晋三です。晋太郎の嫁の叔父に当たるのが岸信介です。
安倍晋太郎は長門市油谷(現在の下関市)にある家を正家としていました。晋太郎は山口県会議員や自民党執行部の責任者をも務めた政治家です。
その息子晋三は東京で生まれ幼少を山口県で過ごし小学生1年から東京の学校に通っていました。父親晋太郎は山口県に籍を置き晋三の本籍地記載は山口県となっています。小学生から大学までの間、長期の休みには親元の山口県に帰省していたと考えるのが普通でしょう。そこで山口県に伝わる例えば吉田松陰の教えや例えば高杉晋作のこと、例えば白石家の歴史などを勉強できたのも当然でしょう。
本籍(戸籍)と言うものはとても複雑な成り立ちではありますが簡単に言うと「自分の正家の証明書が置かれている場所」を示すものです。安倍晋三の戸籍は山口県に置かれています。なので山口県の人となっています。
これは考え方が様々ですが今が江戸時代や明治時代ならそれも納得できるところですが東京で生まれ小学校1年生で上京した事実において「地元山口県」は少々理由として薄いような気がしています。
が、本人が「地元山口県」と言うのですからそれを信じるしかありません。
江戸中期から明治初期において山口県で重要な人物は下関に住居を構えた白石正一郎も挙げたいと思います。
白石家は豪商の名を欲しいがままにした家です。酒、タバコ、塩、木材、貿易、政商、その全てをまかなっていました。資金が豊富にあった白石家には山口県内(長州藩)はもちろん鹿児島広島福岡など近県からお金を借りにくる武将たちが多くいました。
その借金をもとに明治維新への資金とした武将も多く、西郷隆盛にも面会しています。
西郷曰く「温和で清廉(せいれん)、実直な人物」と評価されています。
様々な面で政治や歴史とも関わりの多い県ではあります。
実際の現代の山口県はどうか?と言えば、古き良き風景を残し風土に見合った経済を持ち続け活発に新しきと古きが共存している県に思います。
政治に深く関わった県(藩)と言う暖簾(のれん)をそろそろ外しても良い頃では無いかと思っています。
第2話「言葉」に続く。