好きなキャラ解説 1/4「吉田松陰」


自粛ムードで活動範囲をなるべく小さくしているので家でもできるネタを。
好きなキャラ解説 全4話。

1)吉田松陰
2)アドルフヒトラー(これは好きと言うか謎めいてて好きと言う感じです)
3)ディオ ブランドー
4)レベッカ リー
この4話で頑張っていってみたいと思います。

今回は県民贔屓(ひいき)をバリバリ入れた吉田松陰 編。

東京にも松陰神社があり家も程近いので散歩コースになってます。山口県出身の自分としては吉田松陰や県出身者を褒め称えたいところですが、一味違います。
良いものは良い、悪いものは悪い、アホはアホ、最高は最高!と言うのが自分ですので、
正確なデータが欲しい方は他をあたってください。

ミサキ流に面白おかしく吉田松陰の最高!を書いて見たいと思います。

名前

松陰はなんと改名した名前です。「親からもらった大事な名前を変えるなんて!」と言い出したのは明治後期からです。戸籍が登場しそれが確立してから改名は行政の手続きが必要になりました。それ以前は「呼び名」「諱」(いみな)と言う風潮があったので改名はオールOKでした。諱は死に人を称え付ける意味を持ちますが、その辺りの定義はのちになって出来たようです。実際にはじゃんじゃん改名しています。
その時、活躍した明治志士たちもじゃんじゃん改名しています。
有名なとこで言えば西郷どんは「吉之助」から「隆盛」、大久保さんは「一蔵」から「利通」、伊藤さんは「利助」「俊輔」から「博文」、坂本さんは「龍馬」から「直柔」「直陰」などなど。
そこで際立つのはセンスですね。伊藤さんは言うなら「美味しいとこだけ持って行った」と言われても仕方がない人物ですが、高杉さんの諱は「春風」最後の名前は「東洋一狂生」、吉田さんの諱は「松陰」、このセンスの良さが松下村塾のセンスだと思いますよ。
一世風靡セピアの松村冬風くらい最高にカッコイイ命名です。

話を戻して基本データ

1830年から1859年までの物語です。1868年が世に言う無血開城です。
松陰の出生は杉家に生まれ、のちに吉田家の養子となりました。
なかなか波乱万丈の幼少期で、かなり端折りますが文武両道のできる子だったようです。そのきっかけは毛利敬親の前で武教全書と言う戦法の講義を朗読したことに始まります。
どの辺りから吉田さんが世界を意識したかと言うと山田宇右衛門と言う長州藩士に世界地図を見せてもらったところから世界を意識し出します。

自分の全てが世界の全てでは無いと初めて知った時の気持ちはどんなだったでしょうか、一つ言えることは吉田松陰は頭の良い馬鹿でもなく、頑固な馬鹿でもなく、知らないことにワクワクする人だったことは間違いないでしょう。ポップな男で日本初のHipStarであったことでしょう。


吉田さんが犯した罪


1)まずは肩慣らしで「脱藩」し、そしてバクにつきました。

その求刑は士籍剥奪・世禄没収。士籍剥奪は武士としての身分を無くしました。世禄没収は家柄などの家徳を受け継ぐことを許されませんでした。

2)本領発揮で外国船に乗り込む。が、気持ちとは裏腹に乗り込むはずだった船は出港していて失敗。それが江戸幕府にバレてお縄に。

外国船搭乗には様々な出来事が重なり何度も失敗に終わります。

3)最後のワンチャンス!ペリー来航にターゲットし乗り込みますが、ここでも失敗。これが大事件となり投獄されます。


4)ここからは罪人としての人生ですが、日米修好通商条約に激怒します。吉田松陰が激怒したと言えば絵になりますが、この人は罪人で投獄され幕府管理下の軟禁状態です。

激怒した吉田さんは松下村塾の有志に戦いの旗を揚げさせます。なんと城下主である毛利敬親をテロする計画を立てます。しかし桂小五郎や久坂玄瑞に止められテロのことより門下生の士気の低さに肩を落とします。肩を落としたのが吉田松陰の最後だったかも知れません。
その後、幕府管理下の軟禁の最中、聞かれれば答えると言う姿勢をとった吉田松陰は要らぬことまで答え、打ち首が申し渡されるのです。

5)1〜4までが史述に残る吉田松陰の罪ですが、最大の罪は「師匠」は「先生」を意味し先生は生徒(門下生)を持ちます。日本においてのシステムの分岐点は明治維新とWW2終戦でしょう。そのどちらにも松蔭の門下生または末裔が噛んでます。もし今、目の前にある現実が松蔭の教えのままであるなら駄馬の教えです。駄馬が教えた志を門下生が受け継いだと言うことになります。その逆に偉大な教えを駄馬なる門下生が実践したとしても、その教授は伝わっていなかった可能性の方が高いです。吉田松陰と言う人間を「先生」と尊ぶならもう一度先生の教えを省みるべきだと思います。松陰が見聞を広げる志を教授していたのなら志を正確に伝えることができなかったことが最も重い罪でしょう。明治政府からWW2までは天皇陛下を盾にし、WW2以降は民主主義の名の下に国民に責任を持たせ、松陰先生を神と祀りあげヒーロー化した統治者に松陰先生の教えがあるとは思えないことが吉田松陰の犯した最も重い罪です。


誰のせいにもしないで自分自身の見聞と正義を貫いた松陰先生の命はもっと偉大な命です。


松陰神社の家紋


五瓜(ごか)の中に卍が吉田松陰の家紋です。
五瓜で有名なのは織田信長の家紋。子孫繁栄を願う意味があるそうです。
問題は中央の卍。卍は日本では寺院や寺、または当時の寺小屋(学校)を意味しますが、吉田さんの家紋の卍は45度傾いています。45度傾けるとハーケンクロインツの左右対称となります。
これは興味深い。

卍はアーリア系の民族の象徴となり、その後にヒンドゥー教の「幸せ」のシンボルとして採用されたそうです。
実際に卍マークは多方面である特定のコミニティの象徴としてフラッグに記されました。

では卍を、幸せを、45度傾けたのは誰か?

吉田松陰が生まれるよりも10年前、1920年ドイツで民主化運動のシンボルとして卍は45度傾けられました。後のナチ党のシンボルになりますが、鉤十字の意味は団結、集合、民族主義、などなどナチズムの意味として捉えられたのがアドルフヒトラーの登場でした。

鉤十字(ナチ党のフラッグとして)の初登場は1920年。
吉田松陰の物語は1830年から1859年。
ヒトラーの物語は1889年〜1945年。

興味深い年表ですが、ヒトラーの物語る「団結」や「民族主義」と吉田松陰の物語る「志を共に」や「日本のために」がイメージを除けば同義語に感じます。
西洋と日本の右書き左書きがそれらの書方だとしたら、、、

「幸せ」を45度傾けたその深い意味があったのかなかったのか?
最高にイカしてる!

先生と呼ぶ

以前書いた「たまにはLOVE山口県」で触れませんでしたが、吉田松陰のことを「松陰先生」と呼ぶ山口県民は萩市で小中を学んだ人です。これはかなりの正確さがあると思います。
下関、宇部、小野田、などの県民の多くは「吉田松陰」と呼び捨てです。
萩市出身で「松陰」と呼び捨てにしている方がいましたら、もう一度故郷で学んだことを思い出し「原点回帰」を試みれば生活に新たなアイデアが生まれるかも知れませんよ。
今でさえ伝わる教えが愚学なわけがないですよね。

萩市はとても素晴らしい町です。その中で吉田松陰の教えが脈々と潜在的に学んでいるのですから当時のリアルは別として素晴らしい改革的な思想を持っていることでしょう。

下関出身の人間は明治維新志士の中では高杉さんを重んじてしまいますが、そこには港町であったり、イギリス海軍に町が大砲をぶっ放したり、朝鮮半島からの労働者を多く受け入れたり、萩市の学びとはまた別のカオスが存在していました。
が、吉田松陰のことを先生と呼ばずとも偉大な人だと潜在的に知るのは当然のことでした。
もし吉田松陰のことを「くだらねぇ、人間だ」と言う人がいれば自分はそれを完全否定します。

そんなことよりも吉田松陰を師と仰ぐわりには、あまりにかけ離れた志を軽口で言う人のことを疑っています。そんな人に国政のマイクで講釈を垂れられても説得力はゼロでしょう。またもや「吉田松陰」の志を盾に自分を守るのか?と命の懸け方を学ぶべきだと思います。命を懸けて志を全うしようとしたらあんなにヘラヘラできません。命を懸けて政治をやって欲しいものです。

まとめ

吉田松陰は偉大です。が、偉大すぎるが故に現代では利用されるアイコンにもなります。
それは本説逆説双方に相見えることなので仕方がないのですが、吉田松陰の教えをもう一度勤勉できれば、松陰先生の望んだ未来があるかもしれませんね。

もし、今のこの現状が松陰先生の教えに基づいた現実であれば、その教えはただのエゴです。エゴを教えた人が偉大になるはずもないのですから、教えをもらった人が間違っているのでしょう。

日本初のHipStar 松陰 吉田!最高です!

好きなキャラ解説 アドルフヒトラーに続く。